2014年5月24日土曜日

三手先

スパイスガールズの、ママ受験生が
唐招提寺金堂は 完成形?

斗(ます)の位置が整って配置され三手先組物が完成した
とブログに書かれていましたが・・・

合格物語の解説には、
【14242】「薬師寺東塔(奈良時代)」は,軒先を支える3段構成の三手先の組物を用いているが,形式はまだ不完全のものである.
とあり、
建築学会編の図集の薬師寺東塔の解説には、
>・・・この様式を白鳳様式とみなす最大の理由は、組物が三手先であるが、
 唐招提寺金堂に見られるような整った三手先になっていないという点にある。
と書かれていますが、
整ったから、ハイ完成です、だとちょっと飛躍し過ぎ?
のような気もするのでいつものおせっかいです。
(出ませんよ〜)

薬師寺東塔(白鳳時代)の組物細部はこんな感じ。
薬師寺東塔_三手先
三手先の最も古い例で、まだ軒支輪がなく、斗の上に斗が重なるという形式にはなっていません。
また、尾垂木の上にのる三手先目の組物の位置が自由であり、その秤肘木の大きさも壁付きの枠肘木とは無関係に決められていて、鬼斗も使われていません。

一方、唐招提寺(天平時代)では、壁から前に突き出しただけの三手先を、横に連絡して軒支輪をつけたものとなりますが、まだ斗の配置は整備されず、この完成は、当麻寺東塔(奈良末)、
当麻寺西塔(平安初期)や室生寺五重塔(奈良末〜平安初期)になってから。

唐招提寺金堂の斗栱原寸大模型(国立科学博物館蔵)
なお、唐招提寺は何度か修理されていて、元禄(江戸時代)の改修で小屋組に跳ね木や貫が加えられ、高さが約2m高くなり、現在まで続く外観となっています。
創建時復元正面図      ビフォーアフター      改修後現状正面図

隅の組物の組み方も、醍醐寺五重塔(平安中期)では二手目の秤肘木を隅で伸ばしたものとなって三手先目の位置を調整するようになり、平等院鳳凰堂(平安中期)で完成されたものが見られ、以降の和洋組物はこの形式が踏襲されていきます。

壁付きの斗、肘木も醍醐寺五重塔や平等院鳳凰堂では、大斗の上に三斗組を造り、長い通し肘木をのせ、更に三斗組をおく方式であったものが一乗寺三重塔(平安末)や常楽寺三重塔(室町中期)になると、3段の通肘木を重ねる形式に変化していきます。
また、常楽寺三重塔の組物は完成した六枝掛を示していて、垂木の寸法と割付寸法が建築単位として成立し、組物が垂木寸法と有機的な関係を持つようになったといわれています。
三手先の変遷(上から薬師寺東塔、醍醐寺五重塔、常楽寺三重塔)
何をもって完成したというのかは、いろいろありそうです。
(*図版及び解説は建築学会編の日本建築史図集より転載)

【追記】
六枝掛のような部材比例を数量化し、体系化したものが木割術。
【25172】にでてくる木割で、匠家の秘伝として伝えられたもので有名なのが「匠明」。
幕府大棟梁平内家に伝承されてきたものです。
なお、木版本となって流布した木割書もあります。
匠明

【追記の追記】
数年前に終わった唐招提寺の平成の修理では、スーパーゼネコンの構造部長さんらによって一種の耐震補強もなされています。(ちなみに建築学会賞受賞(技術))
技術の進歩はすばらしい。
 参考一社)日本建築総合研究所機関誌GBRC2009年10月号
修理記録写真(唐招提寺公式HPより転載)
木造1階建てですが、柱間で約28m × 14.6m(軒の出は約4.4mあります)、高さ15.7m。
大規模木造ですよ、オクサン。

8 件のコメント:

  1. あら〜σ(^_^;)
    いろいろ見方がチガウ。。。

    Nのテキストには
    唐招提寺金堂
    〜斗の位置が整い、鬼斗が
    使用され三手先組物が
    完成する〜
    とあります(^◇^;)

    同仁斎同様
    ここでも表記がチガウ。。。

    見る資料?によって
    記述が違うと混乱しますが(T_T)
    試験用はNのテキスト、
    学術的には建築学会編の
    図集、と割り切ったほうが
    よいのでしょうか??

    ややこしい〜(~_~;)

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    1. こんにちは。
      試験用も学会の通説も同じ物だと思いますが、
      あえていえば
      合格物語の解説
      「形式はまだ不完全」
      は間違いではないので、試験的にはコレでいいと思います。
      試験でもそれ以上は突っ込まれないはず。
      出てもみんな出来ないので、勘の勝負になります。

      様式が完成と言い切ると、
      どの時点で完成というのかの意見が分かれることになると思います。
      書いといてなんですが、
      ・薬師寺で用いられた三手先はその後形式が変遷していったらしい・・掘り下げ
      ・変遷をいろいろ調べてみる・・深入り
      かな…^^;

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  2. オッサン≒むかいづる2014年5月26日 0:13

    大学の夏休みの宿題で、「三手先」の模型づくり」と、「家紋を烏口で書いてこい」ってのがあったのを思い出す。三手先模型も難儀だったが、我が家の「南部対い鶴」っていう家紋がまた複雑な形で超難儀だった。

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    1. こんにちは。
      エスキース しゅっしゅっしゅっしゅっしゅっーー
      図面 シャカシャカシャーーー
      要点 人が感じる暑さ寒さの・・・_φ(・_・

      モチベーション上がってきたみたいですね。
      ペンギン桜や合ママたちの一歩先へ( ^ ^ )/□

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  3. 形式はまだ不完全、ですね^^;
    たとえばこれが出題されたとして
    何を根拠にしたのか、と
    問われた時に

    Nのテキスト、とは
    ならないですよね。。。

    satoさんやpadmateaさんが
    持っている建築学会の本を
    根拠にした、というほうが
    正しいんでしょう。。。(^◇^;)

    計画って
    こういう箇所が多そうです^^;

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    1. こんにちは。
      女王様の言うことをおきき(-_-)/~~~~ピシー!ピシー!
      冗談ですm(_ _)m

      作品や建築史の問題といっても
      建築士の資格試験なので、
      定説のあるものから問題をつくることが多そう。
      さすがに、試験委員の個人的な嗜好ということはなさそうなので
      とりあえず出たことをなるべく正確に押えておけば
      十分合格圏に入れると思います。

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  4. 趣味で寺社建築に興味があり調べております。
    三手先と表示される形態も時代とともに進化してきたことを知り、これまでなんとなく違うなと思っていたことが、納得できた気がします。

    質問なのですが、薬師寺東塔の古典的三手先の「三手先目の位置が自由」に対し、平等院鳳凰堂や常楽寺三重塔のような完成期の三手先が「三手先目の位置が既定される」というのはどういう意味なのでしょうか。
    素人としては、丸桁の下に三手先目を組むのだから、どちらの三手先目も位置が決まるように思うのですが。
    秤肘木を隅に伸ばして、鬼斗で組むことと関係があるのでしょうか。

    お暇なときにでも教えてください。

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    1. こんにちは、ご訪問ありがとうございます。
      見れば、そうなのかもしれないみたいなことなのですが。
      追記しました(次の投稿)。
      (http://sato4f-jottings.blogspot.jp/2014/05/blog-post_79.html)

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